弟子筋コラム  
隻眼先生の環境マンダラ(連載第3回)
     
     環境デザインについての誤解

「前回の最後の君の質問は,再利用は貧しいのか?でしたね.日本のある生協で買物袋持参率はたった37%でした.もう10年も前のことですが,中国ではレジ袋1枚が50円,日本ではせいぜい5円かな.レジ袋は実に細かい例ですが,一事が万事,内需を減らさぬことが第一義なのですね.とにかく生協でさえこうだから,物質的に豊かな日本人の環境意識が低いといわざるをえないでしょう.」
隻眼先生の言い分は単純なyes−noで答えを出すな,ということなのだ.そういえば阪神地区には,ダイエーで買った安物を高級スーパーikariの袋で持ち歩く見栄坊がいたことをわたしは思い出した.
「地球環境会議でよく聞く,環境保全にはまず経済発展を!という途上国の常套句も信用してはいけません.貧富と資源再利用の関係は,周辺のどの要素を加えて考察するかで大いに変わります.そこで登場するのが計画ですが,今日はこの計画段階以後を想定して,環境デザインを論じたいのです.」
環境計画こそが本命で,plan, do, see (またはplan, do, check and act)のサイクル,つまり,マンダラは自己完結はしない,と先生はいいたいらしい.

環境のデザイナーはどこにいる?
 「環境って何だ,という議論こそが原点なんですが,隻眼流の見解は後日おいおいお話しします.それ以上に,僕はまだ「環境デザイン」の見本を見たことがないのです.昨日まで水処理,水質汚濁,大気汚染など,慎太郎のいうppm教の枠内にいた一団が,突如「環境デザイン学科」を名乗るのは奇怪です.そして「健全な水循環をデザインする」のような用法が至るところに現れます.この表現の問題は,<健全性>を誰がどんな方法で評価するのかがわからないことで,強いていえば,身近に降る雨水の利用,汚水の再利用などすべてが健全かつ必要不可欠なのだ,という大前提に立っていませんか.さらに,「水循環=環境」という短絡も見てとれますね.」
 「<合成の誤謬>を知っていますか.個々人の考えまたは個別の技術はそれぞれ合理的でも,それらを合成したら不合理になることです.さっきの例では,循環用のエネルギーは?,水利用者の嫌悪感は?,などの視点が抜けていて,専門家だけの好みで万事進行します.かりに市民が参加しても,彼らはつい擬似専門家のスタイルをとるのです.これは僕が最近10年ほど市民ボランティアと関わった経験で痛いほど味わったことです.つまり,デザインの哲学がないのですよ.この哲学づくりを哲学者が担当するのは当然ですし,少し格下だが建築家にはわれこそという人が多いです.もう論文は散逸しましたが,元厚生省の脳死委員会で見事な論陣を張った梅原 猛が哲学者の好例で,クローン人間にも哲学の必要が取り沙汰されていますね.だけど川島康生ら心臓移植推進派は,人命第一だけを唱えて哲学を無視したはずです.さらに,哲学的考察の締括りには<消費者の合意形成>を忘れてはなりません.ただし平凡なアンケート調査では合意形成はできませんよ.」

建築のデザイン美学の泣き所
「公害激化の最盛期にいち早く<環境>を使った人たちがいました.60年代の中ほどに黒川紀章が「環境建築」を唱え,浅田 孝が「環境地盤」で建築学会賞を取った.浅田は3層の人工地盤を実際に造ったのです.しかし両方とも,建物なり地盤が<環境>だという美学(aesthetics)的主張でしかなかったのです.ただふたりとも面識はあったし,浅田とは共同で仕事もして,彼の人柄は信用できたので,僕は噛みつきはしなかったのですが,後続の建築デザインがだんだん手に負えなくなってきたのです.」
「この前薦めたKerrの『犬と鬼』をもう読みましたか」と先生.(あーよかった,まだ見てないでは取材者の資格はないからな.)わたしは第10章の「マンガと巨大−モニュメントの美学」までは読んでいた.そこに登場するマンガ派と丹下健三(後継者が磯崎 新(あらた))を首魁とする巨大派の悪行が生々しく語られていた.マンガ派はペラペラ・ピカピカの材料に<浮遊性>という美学を冠せ,巨大派は難解な用語で行政の発注者を煙に巻き,高額のハコモノを造らせるのだ.第9章では「相続税と日照権」がともに袋叩きで,公開空地制度も巨大推進の下敷きだと,従来のわたしの理解が完全に覆えされた.新京都駅ビルのデザインをした東大の原 広司は,マンガ派と巨大派を兼務していて,この駅舎のアダ名が「軍艦」というのも,うまく的を射ているではないか.
「<モニュメントの美学>というのが曲者でね.Kerrが気づいていない例を僕もひとつ紹介しましょう.東大の都市工学で丹下と同僚だった大谷幸夫が京都の国際会議場と筑波の環境研究所のデザイナーでした.両者の共通項は階段とskip floorがやたらに多いことでね,僕は<迷路性>という名前をつけています.学問の深奥に浸るには途中で色々迷うほうがいいということかもしれない.関西文化学術研究都市の中核である高等研究所の施設建設委員会にも関係したことがありまして,デザインを受注した日建設計が<知の伽藍>を創ると言い出したのです.高等研の目的は「何を研究すべきかの研究」で,まぁノーベル賞級学者のmasturbationみたいなもの.伽藍の要素として奈良の古文化財や大学都市京都からのアプローチ,さらに木津川の遠景にまで関係線が引いてありました.池を眺めて思索に耽り,研究秘書が静かに待機している空間を設けたり,敷地内の宿舎の間取りも考えるという念の入れようでしたが,僕はここにも<迷路性>を発見しましたよ.」
なかなか面白そうだとわたしは思うのだが,先生によれば,<デザイン=意匠>には材料の風合いや宮大工のやりがんな?鉋(やりがんな)などの用具すら美的センスに含まれるのに,現実は建築のための建築,芸術のための芸術, つまり自己完結でしかないのだという.
「吹上御所の設計で宮廷建築家と呼ばれたU・Sの追悼会が去年の暮れにあって,僕は義理で出席したのですが,浮遊派の代表格の長谷川逸子も含む弟子たちが師をどう評価するかに聞き耳をたてました.やはり<宗教性・精神性>のオンパレードでした.」
わたしは,建築家がよく使う<空間性>について先生に尋ねてみた.というのは,毎土曜テレ朝の「建物探訪」で,渡辺篤史が「いやいやいやいや,このリッチな空間!」といいながら,居間の大きなガラス面と吹抜け空間に感服してみせるからだ.「えー,あれは渡辺が舞台回しとしてデザイナーの代役をしているわけで,<空間性>や<生活dynamism>などの言葉に翻弄されたら,住みにくいことこの上ないですよ.ただ探訪した家の台所まわりは実によくできていますね.」

Sexyなファッションと建築の相似性
 「突飛ですが,BSジャパンで毎週土曜に「ファッション通信」があって,今年のパリコレの典型は,大きくV字型にカットされた胸元(シースルー)と超ミニか,乱れた裾を斜めに切ったスカート,それらの解説がみな<sexy>で統一されるのです.代表がLouis Vittonで,同じことを政官業の内部を抉ることで売っている『選択』も特集しました(「戦争の影振り払うパリコレ」/02年12月号).衣装の意匠がいかに<sexy>でも,背丈はひょろ長く微乳・小尻のモデルたちのどこがsexyか,それにしてもcoquettishなどの語はどこへ行ってしまったのか.さらにshowじしんも,fashion designerはもちろん,建築デザイナー,映像作家,DJなどのartistsがcollaborationしたcreatorたちのeventだと吹きまくるのです.」先生は,そのうちにsexyさを売り物にした家が出現するとでもいいたいようだ.
 「えぇよく気がつきましたね.Kerrが第12章の始めに,Marcel Proustの「社会はsexみたいなもの,趣味に走れば走るほど社会がどれほど変態になるかわかったものでない」を引用していたでしょう.建築もファッションも,さらにハコモノ行政も,皆変態だというわけですな.」
 −隻眼先生も変態ですか?「コラッ何をいうか.変態とへそ曲がりは全然違うよ.隻眼で見ると現在のあらゆる社会現象こそが変態です.ケイタイを駆使する若者には年寄りに想像もつかないabnormal sexualityが広がっているかもね.僕がいま気にしているのは,今月京都で開催される「世界水フォーラム」の最終宣言を起草する委員会が会期の4ヶ月も前からできたことです.3年前の第2回で,素っ裸の男女が会場に雪崩こみ,途上国の飼料穀物栽培用の水が間接的に先進国に収奪される,として,肉食への猛反対で会場を紛糾させたような事態に,最終宣言は対応するのでしょうか.似たことは色々な国際会議の場で必ず起こっていますね.委員長が元京大総長で京都市立芸大現学長の西島安則, 副が滋賀県立大前学長の日高敏隆,ご両人とも素敵な方なのだけれど,実務は事務局がやって,責任だけ取らされるのではないかなー.こういう学者の起用法も変態ですよ,sexyではないけどね,ハッハッハッ.話を混線させましたが,イエの原点がエコですから,またやりましょう.」 
               (さすが流石 さざれ/評論家)